ダーウィン

もうこれ最悪だ。雨期のマンダレーは排水が悪すぎる。
駅の西側では道路の両脇に幅1m、水深6cmの小川ができている。
車はそれを避けて走るが、歩行者はそういうわけにもいかない。
周りを見ると、裾をたくし上げて男も女もざぶざぶと汚濁した川に足を入れて歩いている。
「水遊びが町中でできるなんて、なんてすてきなの」と暗示をかけて足を踏み入れる。

水に閉め出されるのは人間だけではない。
蟻も行き場をなくすらしく、水の届かない場所にふきだまっている。
ビーサンで歩いていたら4カ所もかまれた。痛い。痛い。痛い。
痛点に配慮する針を持つ蚊のほうがいくらかましに思えてくる。
もうこれ最悪だ。水のないところに行きたい。
高いところへ。マンダレーヒルへ。



マンダレーヒルは、仏教の聖地だ。
靴を脱いで、裸足で登る。
今日は土曜日で、家族連れの参拝者もいる。
果てしなく続く石の階段とトタン屋根。
石の感触がひんやりして気持ちいい。

土産物屋が参道に軒を連ねる。
土産物屋はここに住んでいる。
なんならペットも飼っている。フランクな聖地だ。
時々顕れる仏像に手を合わせながらたっぷり2時間かけて登った。



頂上からの眺望は悠大だ。
エーヤワディーが中州を作りながらゆったりと流れていく。
町の汚水も今朝の雨もすべて呑み込んで、インド洋へ向かう。

ぼーっと眺めていたら、小さなお坊さんが話しかけてきた。
齢15歳。ダーウィンと名乗った。まぁ、ニックネームだ。
いかにも頭の良さそうな名前だが、実際いかにも頭がいい。
英語のみならず、中国語を操る。
私を中国人だと思って話しかけたようだが、日本人と知っては日本語を知りたがる。
日本の社会を知りたがる。
これはたいした小坊主さんだと感心していたら、
ダーウィンは日本語のガイドブックに興味を示した。
とにかく、仏像の写真がお気に入りで、うっとりと眺めている。
マンダレー郊外のモンユワの写真を見て、
「ここ行ってみたいなぁ。友達は行ったんだけど。
この仏像、すんごいでかいらしい。行ってみたいなぁ。」とこぼしている。
「そんな遠くないよね。ご両親は忙しいの?」
「いや、離れて暮らしているから。僕は僧院の寮に住んでいるんだ。」
「そうか。寂しくない?」
「いや、僕が望んだことだから。それに僧院では全てが無料なんだ。」
「すごいね。授業料も?食べるものも?」
「着るものも、本もね。日本やドイツの支援なんだ。
 いろんな国籍の先生がいるんだよ。」
「だから中国語しゃべれるんだね。」
「そうだよ。」

夕日が行って、夜になっていた。
ダーウィンの好奇心が旺盛なので、地理や歴史の話で盛り上がってしまっていた。
それにしてもおなかがすいた。
麓に屋台が出ているらしい。一緒に晩御飯を食べることになった。

あの階段を息を切らして駆け下りる。
土産物屋は店じまい。足元が少し不安になるくらい暗い。
参道のすぐ脇の家から、光とテレビの音がもれてくる。
誰もいない、暗い参道を息を切らして駆け下りる。
不意に、ダーウィンが「ギャッ」と叫んだ。
「どうしたの?」
「うえー。犬のウンチ踏んだ!うえー。」
笑いが止まらない。爆笑でますます息が苦しい。
ダーウィンは民家の貯めている雨水を拝借して足を洗っていた。

麓の寺は電飾まみれでクリスマスだった。
家族での参拝客が沢山いてにぎやかだ。
私は豚モツ串汁をいただき、ダーウィンは汁だけを啜った。
やはり肉食はだめらしい。
明日、僧院を訪れることを約束し、この日は別れた。