社会起業家ウィリアム・モリスが絨毯に見た夢

私が絨毯に感じるリビドーを、19世紀イギリスで感じていた人がいます。
その人は、絨毯に魅せられ、自分で絨毯を織り始めました。
ウィリアム・モリス、アーツアンドクラフツ運動の提唱者として知られるその人もまた、絨毯のファンでした。
今回はこんな感じの話をします。

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ウィリアム・モリスという人
 モリスは1834年、ロンドンの裕福な証券仲買人の家庭に生まれた。王室所領の森や荘厳な教会建築・聖堂・図書館を愛しながらのびのびと、しかし両親に反抗する少年時代を過ごした。青年時代は、聖職者を志望してオックスフォード大学に学び、同輩であるエドワード・バーン=ジョーンズ(すげぇ有名な画家!)らと友人になる。やがて建築を志し、在学中から建築事務所で9ヶ月間の徒弟修行、いまでいうインターンをした。その後ロンドンでバーン=ジョーンズとともに起業して絵付き家具を製作し、販売した。家具の他にもステンドグラス・タイル・家具・壁紙など、建築内部の装飾芸術に取り組んだ。商会ではモリスのデザインで様々なテキスタイルを制作したが、手織り絨毯の制作にも取り組んだ。また、文学への関心も高く、本の装丁・活字のデザインのみならず、自ら詩作や小説の執筆に取り組んだ。さらに建築物保護協会を創設したり、社会主義の機関紙に寄稿するなど社会主義者としての活動も行っていた。晩年は、モリスらの活動に影響を受けた若い世代が始めたアーツ・アンド・クラフツ運動の支援や、理想の書物を追い求めて出版社を立ち上げるなどした。そして1896年、62年の生涯を閉じた。主治医は死因として「社会主義の理想を広めようと言う熱意の犠牲*1」と語り、別の医者は「病名ウィリアムモリス1人で10人分以上の仕事をしたため*2」と語ったとされる。
 つまり、モリスはボンボン高学歴の学生起業家*3であり、社会主義運動に加わった改革者であり、装飾建築デザイナーであり、愛書家の小説家であり、超多忙でハングリーで行動的な実践の人であったと言える。こんな人がいまfacebooktwitterをしていたら何万フォロワーを獲得するのだろう。とんでもないカリスマである。


ウィリアム・モリスの思想
 モリスの活動は、あまりにも様々な領域にまたがっているが、その仕事を貫く思想は社会問題を芸術で解決する、というものであった。
 モリスの生きたビクトリア女王の時代のイギリスは、産業革命をいの一番に成し遂げ、世界の工場として名を馳せていた。あくなき利益追求と機械化は、人間の労働さえも部品化してしまった。早く安く作ること優先するために、製品の品質が低下し、開発の名のもとに自然を破壊し始めた。産業革命でもたらされる富は平等には分配されず、貧富の差が拡大した。消費からも生産からも人間性が疎外され、一般の人々の生活の生活の質は悪化した。
 モリスはこれらの問題の深刻さを看破し、嫌悪し、分析し、そして行動した。1人でやったとは思えないような業績のモチベーションを、以下のように語っている。

「美しいものを作り出したいという欲求を別にすれば、私を突き動かしている情動は現代文明に対する嫌悪です。*4

 従ってモリスが取り組んだことは、現代文明が悪化させている生活の質の向上であった。具体的には、

1)誇りある仕事の創出。つまり工芸品の製作という仕事の創出。
2)狭い庶民のアパートでも豊かな空間を実現する。つまり壁紙などの装飾芸術の商業的実践。
3)余暇に楽しむことのできる美しい自然の保護。つまり環境を汚染しない製品製作の徹底。

どうなんだビジネス・プランは。理想の社会の実現と自分の企業活動の一致を試みる姿勢は、今で言うところの社会起業家の姿勢そのものに思える。
 モリスの中で芸術と社会主義はひとつのものとして存在していた。目指したのは富が公平に分配され、生活を愉しむ時間が等しくあり、美しい自然が守られ、教育の行き届いている状態であり、ユートピアとして小説『ユートピア便り』で描いている。モリスは以下のようにも語っている

「芸術の目的は労働を楽しくし、休息を豊かにすること。そういう社会を実現するために*5


ウィリアム・モリスと絨毯
 このような思想もつモリスが絨毯に出会ったのは、実は非常に若いころだった。1985年新婚の新居に移った時には既に熱心に収集をしており、1876年には購入した何枚かのペルシャ絨毯のことについて娘にこのような手紙を送っている。「これを見るとあなたはあたかもアラビアンナイトの世界にいるような気持ちになるでしょう。*6」また当時彼はサウスケンジントン博物館(現ビクトリア・アンド・アルバート美術館) で美術品鑑定家として活躍していた。この博物館が今も収蔵する今も世界で一番有名なペルシア絨毯であるアルダビル絨毯とチェルシー絨毯はモリスの助言によって収蔵されたものである。モリスは、これらの絨毯が人の手で織られたものであるということも気に入っていた。これらの絨毯について報告書で以下のように記している。

「私がこれまでに見た中で最も素晴らしい東洋のじゅうたん*7

*8
アルダビル絨毯 ビクトリア・アンド・アルバート美術館収蔵

 1978年にシーラーズ出身のアルメニア系イラン人と出会い、絨毯の織り方を習ったモリスは、自ら絨毯を織り始めた。1879年、まずはクイーンズ・スクエアにあった工房の屋根裏部屋に、織機を据え付け最初の絨毯の製作に取り掛かった。次にハマースミスの馬車小屋を改装した工房で人を雇って、ようやく絨毯らしき大きさのものが織れるようになった。本格的な制作が開始されたのは、1881年マートン・アビーにテキスタイル工房がつくられるのをに待たねばならなかった。

*9
ハマースミスで織られた小型のラグ

*10
マカラック絨毯 1900〜1902年ごろ マートン・アビィにて織られた大型絨毯

 モリスは自分が織る絨毯に関してかなりしっかりとした考え持っていたようだ。

「われわれは、西洋人自身の手織りじゅうたんを造らなくてはならない。しかも、これらのじゅうたんは、素材や耐久性において、できるだけ東洋のものに匹敵するものでなければなるのは当然であるが、図案の点では、決して東洋の模倣であってはならず、建築芸術一般の根底に、あの原理によって導かれた、近代西洋思想の結実を明確に示すものでなければならない。*11

このように述べており、あくまで東洋よりもすばらしく、また西洋の美意識の反映された絨毯を目指していたことがわかる。


ウィリアム・モリスが絨毯に見た夢
 モリスがペルシア絨毯に対して住環境を改善する装飾的な美しさと、これを制作する労働の誇らしさを理想として見出していたことは間違いない。背景に、産業革命に伴う様々な問題をかかえた西洋社会と、その正反対の東洋の姿、すなわち現代文明とは異なり後進的だが理想的な東洋の姿という構造が想定されていたと考えられる。自分の社会の問題の解決策を他の文化に求める姿勢は、現代日本に生きる私たちにも理解できるし、むしろ最近のスローライフだの社会起業ブームだのを先取りするものであったといえる。
 一方で、モリスは素晴らしい絨毯の技術は西洋の文化・美意識に吸収されるべきものとして見なしており、西洋中心主義的だという非難は免れ得ないだろう。もちろん、西洋社会の労働環境の改善が頭の中にあるわけだから、「西洋人の手によって」織るということは譲れない条件だったことは理解できるけれども。

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なんにせよ、モリスは大変な偉人であって、そのお仕事には感服至極であります。
結局のところモリスの製品は高級品になってしまい、庶民には行き届かなくなったりしたけれども。
私なんかは、エゴが強くて、絨毯を見るときだってただの我欲の塊なので、社会貢献に欲を昇華できるモリスには、やっぱりちょっと憧れちゃいますよねぇ。

*1:藤田治彦「アーツ・アンド・クラフツ運動とは何か」(『ウィリアム・モリスとアーツ&クラフツ』梧桐書院、2004年) 4頁28行より引用

*2:藤田治彦『もっと知りたい ウィリアム・モリスとアーツ&クラフツ』(東京美術、2009年) 59頁2段8行より引用

*3:厳密には在学期間と起業はかぶらないようだ。しかし、就職しないで起業しているので学生起業だと言得ると思う。

*4:ダーリング・ブルース『図説 ウィリアム・モリス ヴィクトリア朝を越えた巨人』(河出書房、2008年)4頁16行より引用

*5:同上 5頁上段16〜17行より引用

*6:リンダ・パリー『ウィリアム・モリスのテキスタイル』(岩崎美術社、1988年) 113頁1段38〜40行より引用

*7:同上 113頁14〜15行より引用

*8:杉村棟『絨毯―シルクロードの華』(朝日新聞社、1994年) 85頁より

*9:リンダ・パリー『ウィリアム・モリスのテキスタイル』(岩崎美術社、1988年) 114頁

*10:リンダ・パリー『ウィリアム・モリスのテキスタイル』(岩崎美術社、1988年) 126頁より

*11:リンダ・パリー『ウィリアム・モリスのテキスタイル』(岩崎美術社、1988年) 115頁1段4〜10行より引用