骨董浪漫

もう3日もこの骨董屋に通っている。


3日前、街中の観光客向けの偽物骨董屋で、店員がしつこくて
「こんなイミテーション、こんな値段で売ってんじゃないよ、なめんなよ」
とキレたら、
「ならここへ行け」
と例の骨董屋を紹介された。


でかい迷路みたいな建物の中に所狭しと古道具が詰まっている。
鍋、瓶、弁当箱、ミルク入れ、カウベルカップ、鍵、ランプ、、、、
ほとんどが庶民の生活の中の古道具だ。
真鍮版から打ち出されたような業ものばかり。
名もない作り手の高い技術に感嘆する。
そしてそれを大切に使ってきた庶民の生活に思いをはせる。
取っ手の擦り切れ具合や、布のほつれに、日々の積み重ねを感じる。
ひとつひとつが愛しい。

時々、村から新鮮な骨董が届いて、仕分けされ、修復担当者のもとに行く。
こうした品々はごく安い値段で買われたという。
それでいて売値はインド人から見たらそこそこする値だから、
町の人たちが言うように、ぼろい商売なのだろう。

農村は、古道具を代謝することで、現代化してゆく。
それを淋しいというのは、先進国の人間の勝手であることはわかっている。
でもどうか、美しい技術や祖父母からの日々を忘れないで、と願ってしまう。

最初のころは、店員が付いて説明してくれていたが、
あんまり長い時間滞在しすぎて相手するのが面倒になったらしい。
昼食持参で朝から現れる客をまともに相手するほうが酔狂かもしれない。
私は、迷路の建物も、電気のスイッチの位置も把握してしまった。
彼ら曰く「猫を放し飼いにしている」のだとか。

ずいぶんたくさん買ってしまった。
別れ際、「淋しくなるね。ここで働かないか?」と言われた。
何その魅力的な話。
「ありがとう。でもほかにやりたいことがあるんだ。」
私は日本で、骨董を愛でてインドの人々の生活を想いたい。